技術革命と教育

歴史から見る、現代に必要な教育

技術革命と教育

8世紀に「活版印刷」が生まれました。この技術革命は、とても小さなものでしたが、大きな社会変化に発展しました。

現代社会に住む私たちにとっては、想像しづらいですが、活版印刷が登場する前は、書籍はとても貴重でした。

今の時代なら、100ページしかない本は、「薄い」「安い」と感じますが、当時、その100ページの本を100冊用意しようと思えば、大量の労働が必要でした。

印刷機がありませんので、手書きで写す作業を延々と繰り返すしかありませんでした。しかも、当時、文字の読み書きができる人は、人口の5%にも満たない状況です。とてもじゃないですが、一般向けに、様々な書籍を出版することはできませんでした。

活版印刷は、この状況を変え始めましたが、まだまだ高価でした。現代における電気自動車のようなものです。電気自動車は、一般に購入可能になりましたが、それでも普通の車を買うよりは、割高です。

このような状況で、最初に印刷されたものは、相応の価値がある本でした。「聖書」です。

聖書が印刷され、教会で独占できなくなり、宗教革命、プロテスタントの発生にも影響を与えました。

小さな「技術革新」は、思いも寄らない変化を引き起こします。この印刷という技術革新は、500年後、教育に大きな変化を与え、世界の支配的地位をも変えました。

印刷本が変えた教育

17世紀、18世紀ごろ、世界の覇権は、中国、イスラム圏から西洋諸国に移りました。その陰には、小さな技術革新による「教育の大きな発展」がありました。

そのきっかけは、「印刷本」です。

活版印刷は、どんどん高度になり、費用は減り、たくさんの本が作られ、流通するようになりました。印刷本が手に届きやすくなりました。

この印刷本を「教育の世界」に持ち込んだのが、コメニウスです(他にもいたでしょうが、有名なところは)。彼は、いわゆる「図鑑」のようなわかりやすい図解と、解説がついた美しい「百科事典」のようなものを教育の世界に持ち込みました。

そして「印刷本という教材を中心に」教育をする方法論を提唱し、広げました。

現代に住む私たちは、「それが、どうしたの?」と思うかもしれません。私たちが通った学校は、すべて「印刷された本」を中心に、先生たちが授業をしました。

当たり前に思うこの光景は、今から500年前に生まれたものです。
その延長が、現代の教育です。

なぜ、覇権は西欧諸国が握ったのか?

ところで、15世紀から16世紀にかけて、西洋諸国は、オスマントルコの脅威にされされていました。現在のイスラム圏の軍事力や、技術力に負け、押されていました。

想像しづらいですが、東ローマ帝国は「オスマン帝国」に支配されていました。ギリシャなどは、完全な支配下でした。

この状況から、どんどん西洋諸国が力をつけ、やがて世界の覇権を握ったのには、「教育」に対する真逆のアプローチがありました。

印刷本が登場したとき、西洋諸国では「教育の中心」に据えました。一方で、イスラム圏、中国では「印刷本を遠ざけ」ました。

中国では「権威の印として、美しい書の能力」が重要視されていました。そんな世界に置いて、コピーされた印刷本は嫌悪される存在です。また、イスラムでは暗唱、口伝によって教育を行なっていました。それに対して「印刷本」は、権威を脅かす存在でした。

その結果、教育のスピード・質の全体的向上などが、西洋諸国に凌駕されてしまいました。

以上のような話を聞いて、どう思われますか?
「あーあ、考えが足りない奴らだ」と思われるでしょうか?

次に、現代の例を挙げてみましょう。

近代における技術革新と教育

北欧は「世界で最も教育が進んでいる」などと評価を受けています。一昔前は、日本の数学、国語などの能力が高い!ともてはやされ、自慢げになっていましたが、日本の教育水準は、今や先進国の中でも、最下位に近い地位に甘んじています。

北欧では、数学の時間に「電卓」を使います。手計算ができない子供も、多くいます。それについて、「嘆かわしい」と思いますか?

イスラム世界では、印刷本が現れたとき、こう言っていたかもしれません。

「経典を暗唱できないのか?なんてことだ」

それと同じでないと、言い切れるでしょうか?

現代社会は、「知識が中心」となった社会です。詳しくは、別のメールでお伝えしますが「知識が主体の社会」では、変化が早く、常態化しています。そんな中、あらゆることを覚えておくのは、非常に効率が悪いです。

トップレベルのプログラマたちは、プログラミング言語のすべてを覚えたりしません。ドキュメントと呼ばれる「辞書」を片手に、プログラミングをします。もちろん、慣れてきたら、みないで作れる部分もありますが、辞書を片手にプログラミングします。

彼らに

「辞書を見ながら、プログラムを組むなんて、嘆かわしい」

「全部覚えておくべきだ」

と伝えたら、こう言い返されるでしょう。

「何を言ってるんだ。事前にすべてを暗記できるわけがないだろう。しかも、バージョンアップされていたら、仕様が変わっているだろうし、辞書(ドキュメント)を参照して作らないヤツなんて、二流だよ」

準備しておいて行動するから、「学びながら行動する」へ

さて、上記のプログラマとのやりとりから、一つの教訓が得られます。それは、教育の役割の大きな変化です。

これまでの教育は、無自覚にも「しっかり準備しておいてから、行動する」というパラダイムにあります。一通り学んでおけば、後で役立つということで、意味もわからず、計算を繰り返すようなことをします。

ところが、現代社会では、次々と変化が起こります。先に、必要なことを全部学んで、準備することはできません。例えば、大学でWebサイト作成に関する知識を3年間、みっちり学んだとします。

ところが3年もすれば、使われる技術自体が変わってしまいます。身内批判になってしまいますが、大学のIT教育の更新スピードは非常に遅く、古くなって使われない知識を教えます。そして、その教育ですら、何人も挫折者を出します。

原因は簡単です。

  1. 教育内容の更新スピードが遅い
  2. 一方的に教え、先に全部、覚えさせようとする
  3. 覚えたことでは、応用が利かないので、何もできない

このような図式が成り立っています。

私たちは、すでに起こった「早い変化が、当たり前」の社会に対応するために、思考の土台を変える必要があります。

つまり、

  • 準備しておいて行動するから、
  • 「学びながら行動する」

そのような意識と、技術、行動様式を持つ「教育」を広げていかない限り、現状の古い教育に縛られ、ますます世界の変化から取り残されてしまいます。

読み書きを覚えるところからも、探求中心に

ところで、こんな意見があります。

「文字(ひらがな、漢字など)の読み書きや、基礎的な計算は、繰り返しを強制してでも、覚えさせるべきだろう」

「そうしないことには、先はない」

確かに、「読み書きと、基礎的な計算や、IT操作能力」がなければ、独学をする道は、閉ざされます。

ここで書くと長くなるので割愛しますが、私たちの研究で明らかになったのは、

「単純なひらがなや、漢字を覚えたり、計算を覚えることですら、本人の経験を内省する機会を作らない限り、効果的に記憶できない」

ということです。

大人に言われて、繰り返せば「ある程度」の速度で、「ある程度のレベル」の習得は可能です。しかし、それを「飛躍的」に引き上げるには、以下のどちらかしかありません。

  1. 非常に効果的な作業を先生が考案し、生徒に繰り返し、実行させる
  2. 自分で自分の学び方に注意を払わせ、改善させるように仕向ける

1が、現代の受験教育です。この方法の先には、「考える力がない人間」が育ちます。なぜなら、誰かが用意してくれた教育がないもの以外、効果的に学べません。

一方で、2の方法は、「人間が本来持っている機能(自己組織化)」を使います。人間が本来使っている脳の機能を「意識的に」使うだけの「小さな、小さな」変化です。

しかし、大きなインパクトがあります。ひらがなを覚えるレベルから、適応可能な学習の原則です。

「自分で、自分の学び方」を工夫する教育

「ラーニング・ファシリテーター」が、提供する教育は、具体的ですが、狙いと方法論が、既存教育とは全く違います。既存教育は、先生を前提にしています。知識が先にあって、生徒が従属します。

一方で「ラーニング・ファシリテーター」は、先生を不要にすらしようとしています。

知識を伝達する先生を廃止し、生徒が学習に注意を払えるように介入しながら、自分で考え、行動し、自らで「学ぶ」ように、プロセスを制御します。

得られるものは、「その生徒に大きく依存」します。生徒ごとに、差が出てきます。しかし、その差ですら、良い学習の機会にしてしまいます。

ちょっと難しく、抽象的なことを書きましたが、

  • 現代社会に必須の「学びながら行動する」力

を育むのが、「ラーニング・ファシリテーション」の真の目的です。

教育の発展を阻害するもの

教育とは「その人が社会、人生、個人として、よりよくなるための技術、知識、姿勢を与えること」です。

その教育は、常に「社会の基盤」でした。社会が変われば、要求される教育も変わり、教育が変われば、社会の変化が加速し、発展していきます。これは、人類史を俯瞰すれば必然です。

しかし、どの時代でも「新しい教育」が、すんなり受け入れられたわけではありません。むしろ、常に「妨害」にあってきました。妨害する人の多くは、残念ながら「教育者自身」です。

過去に、ラーニング・ファシリテーション・ワークショップに参加いただいた方の中には、先生という立場の方々も大勢いました。先生の中では、先進的で、意欲的な方々ばかりです。

そんな彼らでさえも、「新しい方法」に恐怖を感じていました。

「生徒から、予想外の質問をされたらどうしよう?」

「先生不要と言われてしまったら、どうしよう」

「自分が、誰よりも理解しておかないと・・・(権威がなくなる)」

という反応が返ってきました。

ファシリテーションが重要だというのに、一人でベラベラ講義を始めてしまう人も少なくありませんでした。

(講義が悪いとは思いません。学ぶ力がある人にとっては、非常に有益です)

「新たな学びの場」を作るのは、民間の活動

私は、学習に関する研究をしながら知人を通して、様々な先生とお会いしてきました。大学の教員から、高校、中学、小学校と。

そして一つの結論に達しました。

「学校教育を変える」よりも、自分たちが主体性を持って、やれることを、やろう。その中に、学校の先生たちも混ざってもらえばいい

学校は、壮大な階層があります。それを崩すのは大変です。これからの社会を考えた時、カリキュラムという概念そのものを変える必要性があると考えています。

しかし、それは、既存の教員の「教える」という能力ではなく、「ファシリテートする」に転換させていくことを意味します。

このような変化は、2年、3年では起こりません。
もっと長い時間が必要かもしれません。

それを悠長に待ってられません。

最近だと「医療を医者に任せっきりにしない」という意識が広がってきました。医者は万能ではないと多くの人が知りました。自分の健康は、自分で考える必要性が理解されてきました。

そして、権威ある医者が一方的に医療を与えるのでなく、医師と患者が協力して、それぞれにぴったりの医療を作り出すような動きが始まっています。

教育も同じです。

「先生」が一方的に知識や技能を与えるのではなく、「生徒」に主体性を発揮してもらい、共に学ぶことが必要です。

それが今、必要な「新たな学びの場」の姿だと考えています。

次からの記事で、詳細に「時代背景」「社会的課題」「学習について」などを説明します。

「乱気流の時代」へ / トップへ